夜はやさし    ちせ様

友雅殿の手はいつも冷たい。
――あなたの手は、いつも温かいね。体温が高いのかな。
いたずらっぽく笑っておっしゃるけれど、友雅殿が低すぎるんだわ、と藤姫は思う。
けれど藤姫は、友雅に触れられるのは嫌いじゃない。なめらかな曲線を描く、大きなてのひら。
冷たくて、さらりとかわいていて気持ちがいい。
友雅はよく、藤姫の頬を撫ぜる。長い指を折り曲げて、くすぐるようにするから、藤姫はきまって目をつぶってしまう。
それから指をすべらせ、藤姫の髪をゆっくりと梳いていく。
藤姫の大好きな時間。
友雅の、手。藤姫のいちばん好きな手。
そんなこと、彼の人の前では決して言えないけれど。





ふわり。
耳許にかすかな風を感じて、藤姫は顔をあげた。肩に目を落とすと、小さな花びらが数枚、舞い降りていた。
唇をほころばせ、指で花びらをそっとすくう。
気づけば、膝の上にも、座っている廊下にも、淡い紫の破片がはらはらと降り落ちてきていた。
(こんなところにまで…風のいたずらですわね)
庭に降りたことがない自分は見ていないけれど、きっと華やかに咲き誇っている藤の花。
今がちょうど盛りの頃だ。
「花が花と戯る姿も、また可憐なものだね」
ふいに声がして、藤姫ははっと後ろを振り返る。花びらをかたどった冠の飾りが、シャラ、と小さな音をたてて揺れる。
涼しげなふたつの瞳が、こちらを見下ろしていた。
「友雅殿…! どうなさいましたの?」
「ふふ、愛らしい我が君のご機嫌をうかがいにね」
翡翠がかった長い黒髪を風に遊ばせ、艶然と笑みを投げかけてくる相手に、藤姫はどぎまぎしてうつむいた。
この方に見つめられると、ときどき、どうしていいかわからなくなってしまう。
こんなふうに甘やかな眼差しを注いでくるのは、友雅殿だけだから。
「まあ、またそんなお戯れを。今、神子様を探してまいりますわ」
「私は君の顔が見たくて来たのだよ。…それとも、用がなければ会いにきてはいけないのかい?」
立ち上がる少女を制するように、友雅が声をかける。思わず、といったように藤姫が振り返ると、寄りかかっていた柱から身を起こし、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
藤姫の前に立つと、顔を覗きこむように少し身をかがめた。
「…私はいつも、あなたに会えるのを心待ちにしているのですよ、姫君」
言いながら、手を伸ばしてそっと少女の頬に触れる。ぴくん。かすかに肩を震わせ、藤姫は一瞬目を閉じる。ひんやりとした、いつもの優しい感触。
胸の奥が、きゅっとしめつけられるような、不思議な感覚。
「わたくし…用がありますの」
心地よいその感覚を振りほどくように、藤姫は、キッと顔を上げた。唇を引き結んで見上げてくるあどけない瞳が、たまらなく可愛らしい。
おや、これはつれない、友雅はくすりと笑って肩に振りかかった髪を優雅に払った。

「一大決心の末の告白だったのだが」
「友雅殿には、一大決心がたくさんありますのね」
「…ふむ、それはそうかもしれない」
「…もうッ、知りませんっ」
からかうような口調に、藤姫は今度こそ背を向けてその場を離れる。
ちょうどこちらの方へ歩いてきていたあかねが、あわてて体をよじって道をあけると、藤姫は恥ずかしそうに下を向いたまま、小走りに通りすぎた。

「あ、ちょっ、藤姫! もう、友雅さんたら。私、藤姫に聞きたいことあったのに」
「ああ、それはすまなかったね。あまりに可愛いものだから、つい」
くすくすと笑う友雅を、あかねはちょっと見つめてから、
「…友雅さんって、“オオカミと少年”なんですね」
「おおかみと少年? 何のことかな」
「私の世界にあるんです。嘘ばかりついてると、本当のことを言っても信じてもらえなくなるっていうお話」

わずかに眉を上げる友雅に、ふふふ、といたずらっぽく笑って。あかねはひらりと袖を翻して、ぱたぱたと走っていった。
「…なかなかにあなどれない姫君だね」
あごに軽く手をかけて、友雅は愉快そうに笑った。





ひらり、ひらり。
音もなく散る花びらを、眺めるともなく眺めながら。
藤姫はいつもの日あたりのいい濡れ縁に、ぼんやりと座っていた。
膝にのせたお気に入りの絵巻物が、風に吹かれてころり、と滑り落ちる。
つい先ほど、あかねが怨霊退治に出かけていった。頼久と、それから友雅と一緒に。

(――どうしていつも、ああなってしまうのかしら)
先日の、友雅との会話を思い出して、小さくため息をつく。本当は、姿を見せてくれるのが嬉しいのに。
きっと自分は、彼が来るのを待っているのに。
それなのに、どうしても素直になれない。
(…友雅殿が悪いのだわ。いつも、からかうようなことばかりおっしゃるのですもの)
つい、そんなことを思ってしまう。友雅殿が、そう、例えば、女房に対して言うのと同じようなことをおっしゃるから。
だから、どうしたらいいか、わからなくなってしまう。
少し離れたところから、女房たちの笑いさざめく声が風にのって聞こえてくる。
――いつも楽しそうに、何を話しているのかしら。そう思って、以前、訊ねたことがある。
けれども、
――まあ、姫さま、あと何年かたちましたら、お話しいたしとうございますわ。
そう言って、女房はくすくすと笑うばかりだった。
それを見て、自分はまだまだ子供なのだと、寂しさにも似た感情を覚えたことを思い出す。
友雅の言葉が、本気のものだとは思わないけれど、それはもちろんわかっているけれど、でも。
どうしてこんなに、心が揺れるんだろう。
あの人の、本当の心がわからない。
瞳の奥にのぞかせる、甘やかな煌めきは、私だけに注がれているものなの?





夕暮れのせまる頃になって、おもての方がにわかに騒がしくなった。
神子様のお帰りにはまだ少し早いけれど、と思っていると、
「姫さま、大変ですわ、橘中将様が…!」
様子を見に行かせていた女房が、あわてて藤姫のいる部屋へ戻ってきた。続いてあかねが飛びこんでくる。
「藤姫、すぐにお医者さん…じゃなかった、えーと、薬師を呼んで! 友雅さんが戦いで倒れたの」
「――!」
はっと息をつめて、藤姫はその場に立ちつくした。荒々しい足音が、中将殿、といういくつもの声に混じってこちらに近づいてくる。
何…、今、神子様は何とおっしゃったの。
友雅殿が…?
「大…丈夫だよ、神子殿…大したことはない」
頼久の肩に腕を回し、体を支えられるようにして友雅が入ってきた。言葉とは裏腹に、苦しげに眉根を寄せ、肩で息をしている。
「友雅殿!」
小さく叫んで、藤姫は口を両手でおおった。急いで几帳の奥へ通し、褥を用意させると、頼久が友雅の体をそっと横たえた。
「神子殿をかばった際に受けた呪術が、思いのほか強力だったらしく…友雅殿と同属性の怨霊だったせいもあるかと思われます」
頼久が低い声で言った。少なからず動揺しているようだった。怨霊退治で、八葉がこれほどの深手を負ったのは初めてだったからだ。
「呪術ならば、薬師では…そうですわ、泰明殿にいらしていただきましょう」
藤姫は使いを出すよう女房に伝えた。口に水を含ませると、友雅の顔にいくらか赤みが戻ってきた。
それでもまだ、額に汗を浮かべ、荒い息をくり返している。
「術のせいかな、熱も出てるみたい…ごめんなさい、私のせいで」
あかねが今にも泣き出しそうに呟いた。頼久が、気遣うような視線を向ける。
「神子殿のせいではありません。怨霊にとどめをさせなかったのがいけないのです、…私がふがいないばかりに」
「どうかお二人とも、お気になさいませんよう。泰明殿が来てくだされば、大丈夫ですわ」
藤姫は、二人を元気づけるようにせいいっぱい微笑んでみせた。
声が震えるのを、必死にこらえた。





夜の帳が降り、館の中の灯台に火が燈される。
友雅のために用意した急ごしらえの寝所にも、蝋燭の灯が儚げに揺らめいていた。
静かな寝息をたてる友雅の枕辺に、藤姫はひとり付き添っていた。
女房たちはほとんど帰し、あかねももう体を休めている頃だろう。
御簾の向こうの、格子を隔てた簀子に頼久がいるほかには、あたりには誰もいない。
一緒にそばにいるというあかねの申し出を、無理をさせてはいけないからと断ると、あかねは頼久に藤姫と友雅の護衛を頼んだのだった。
薄明かりの中で、水に濡らした布を、友雅の額や頬や首にそっとあてて汗を拭う。白く浮かび上がる横顔。
夕方と比べると、だいぶ落ち着いているようだ。身体にかけられていた呪術は、泰明によって解かれ、明日の明け方には熱も下がるだろうということだった。
時おり火影がゆらりと揺れ、かすかな葉ずれの音が聞こえてくる。藤姫は、涙をこらえるように強く目をつぶった。

――息が、とまるかと思った。
頼久に体を支えられ、倒れこむようにして自分の前に姿を見せたとき。
痛みに堪えるようにきつく目を閉じ、引き結んだ唇の間から息を洩らしたとき。
せつなくてせつなくて、胸が張り裂けそうになった。
呪術を受けたのが私だったなら、どんなに楽だったかしら。――そんなふうに思ってしまうほどに、友雅の苦しむ顔を見るのは藤姫にとってつらいことだった。無事でよかった。無事で…よかった。

炎が小さく揺れるたびに、繊細な光が美しく整った貌を照らす。友雅の姿をこんなふうに見下ろすのは、はじめてのことだ。
小さな両手で包むようにして持ち上げた手を、そっと頬に押し当てる。
いつもはひんやりとしている手が、今日はとても熱い。

――友雅殿の手じゃないみたい…。
ぼんやりと思う。かたく閉じられた瞳。友雅殿じゃない、私の知らない人みたい。

(嫌、こんなのは嫌…)
ほろほろと涙がこぼれた。
こんなふうにせつない気持ちで泣いたのは、はじめてだった。
何だろう、こんな気持ち――今まで、感じたことない。
悲しいのでもなく、悔しいのでもなく流す涙。
胸が、いたい。
「ともまさどの…」
紅い花が咲くように開いた唇が、小さく名前を呼ぶ。
早くお元気になって、そして私に笑いかけて。
大丈夫だからと、心配しなくていいと。
いつもみたいに、優しく私を見つめて。
少し皮肉げな、眩しい微笑みで私を包みこんで――。



どれくらいの時間がたったのか。
ふと物音がしたような気がして、藤姫は後ろを振り向いた。が、あたりは先ほどと同じように静まり返っている。
「頼久…頼久?」
御簾の向こうにいるはずの頼久の名を呼んでみる。如何されました、藤姫様。すぐに、凛とした張りのある声が返ってきた。
「あ…何でもないですわ、ごめんなさい」
あわてて返事をして、小さく息をついた。そういえば、こんな時刻に起きていたことはかつてなかった。
水を打ったような静けさ、とはこういうことを言うのだろうか。世の中の全てが寝静まっているような感覚を覚える中で、そばにいる友雅のかすかな息づかいだけが、時の流れを感じさせてくれる。
藤姫は、そっと目を閉じ、静寂の中に耳をすませた。夜と、夜をとりまく闇。かつて見たことのない、深い深い闇。
御簾の向こうには、自分の知らない世界が広がっている。――そう感じても、不思
議と怖さはなかった。

夜の闇が、音もなく降りてきて私たちを包む。絹のような、しなやかなてのひらがそっと私の頬を撫ぜる。
――なんて優しい沈黙。
夜が、こんなに密やかな、愛おしいものだったなんて知らなかった。闇はずっと恐ろしいものだと思っていたから。
お母さまが生きていらした頃、口ぐせのようにおっしゃっていた。夜には物の怪が出るから、早くお休みと。
けれど、今はこの闇が、友雅殿を守ってくれる。夜のやわらかな御手が、きっと友雅殿の傷を癒してくれるの。

(…それに、私もおりますもの。安心してお休みくださいませね)
心の中で呟いて、穏やかな寝顔を見つめる。長い睫毛が影を落とす頬に、そうっと手を伸ばす。指の先が触れた瞬間、
「…藤、姫…?」
うっすらと瞼を上げて、友雅が唇を動かした。ぴくん、と、指が小さく跳ねる。藤姫は急いで友雅の顔を覗きこんだ。
「はい、ここにおりますわ、友雅殿」
「…嬉しいね、ずっと…いてくれたのかい?」
少しかすれた囁きが、甘く響いて胸の底に落ちる。藤姫の瞳を透明な膜が覆い、あわてて指の先で目を押さえる。
「そのせいかな…何だか、とても甘美な夢を見ていたような気がするよ」
友雅はそう言ってくすりと笑い、それから大きく息をついた。藤姫は身をかがめて手を伸ばし、汗で額にはりついた髪を、水に濡らした布でそっと払った。
灯台の淡い光をたよりに、友雅はじっと藤姫の顔を見つめた。
「…姫にそんな顔をさせてしまうようでは、私は騎士失格だな」
「…ないと…?」
「神子殿の世界では、そう言うそうだよ。…いつも君のそばにいて、君を守る男のことを」
驚いて頬を染める少女に、友雅は満足げに微笑み、それから少し苦しそうに息をついだ。すぐに大きな瞳が覗きこんでくる。ゆっくりと、雪のように白いその頬に手を伸ばし、愛おしげに輪郭をなぞって。
「ああ…そんなに不安そうな顔をするんじゃない。…すぐによくなる、から…」
最後の言葉は深い吐息に。そのまま、ふうっと眠りに吸いこまれていく。重たげに降ろされる腕が、藤姫の長い髪をはらりとかすめていった。
ふたたび、闇と静寂があたりをゆるやかに包みこむ。藤姫は、少しくすぐったいような、夢を見ているような心地で、小さく吐息を洩らした。

あなたのそばにいられることが、こんなにも嬉しい。

友雅――友雅殿。
藤は、あなたが、好き――。





瞼の裏に明るさを感じて、友雅はゆっくりと目を開けた。早起きの小鳥たちのさえずりが、遠くで聞こえる。
ぼんやりとした視界に、見慣れない天井が映し出される。はっと身を起こそうとして、自分が昨日の戦いで不覚にも倒れてしまったことを思い出す。
(…そうか、藤姫の館に…)
頭が次第にはっきりとしてくる。頼久に肩を借りてここへたどり着いたことは憶えているけれど、それから後は、あまり記憶が定かではない。

ふと甘い香りが鼻先をかすめた。見れば、藤姫がすぐそばに身を伏せて、小さな寝息をたてている。
「……!」
片手をついて起き上がり、藤姫の顔をまじまじと見つめる。朝日を浴びて白く光る頬。――そうだ、確かに自分は彼女と言葉を交わした。熱がもたらす甘い浮遊感の中で。

(まさか…一晩ずっと看ていてくれたのか?)
それは、そばで友雅の寝顔を見つめているうちに、いつのまにか眠りに落ちてしまったという様子だった。
友雅は藤姫の涙をにじませた瞳を思い出す。
あれは、熱が見せた夢などではなかった。確かに自分のこの手は、少女の頬に触れたのだから。
花びらが散るように、藤姫の長い髪が褥の上に流れている。今が盛りの藤の花を思わせる、豊かな黒髪。
その一筋を指にからめ、ゆっくりと唇に押し当てた。
(ふ…可愛い姫君、これ以上私を夢中にさせないでおくれ。そうでないと、私は君を離したくなくなってしまうよ)
友雅の唇から、苦笑にも似た静かな微笑がこぼれる。このいとけない少女に、こうまで心を奪われてしまっている自分がいる。彼女が見せるひとつひとつの仕草から、目が離せない。
何よりの驚きは、そんな自分を楽しむ気持ちが確かにあること。
この気持ちが、やがては別の形に変わっていくのかもしれない。けれども、今はただこうして、少女の微笑みを見守っていたい。

朝の光が藤姫の眠りを覚ますまで、まだ少し時間があるようだ。友雅は片膝を立てて頬杖をつき、もう一方の手で少女の髪を撫ぜる。ゆっくり、ゆっくりと。
姫君の目が覚めたら、どんな言葉を囁こうかと思いめぐらせながら。(FIN)





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葉月の読後の感想。
「うきゃー!!萌え!!」(違)
まさか友×藤を頂けるとは思いませんで、非常に驚きました。
「師匠にヴィエ様、葉月に藤姫」とおっしゃったK様、正解でした^^;
私と好みが似ているとよく言われるちせ様の作品は、予想どおりめちゃツボでした(笑)
ちせ様、素敵な作品をどうもありがとうございました。
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